子供たちが思春期の頃、
「あんたのためを思って言うてんねんで」
と、自分が言った言葉にはっとして、
本当に、子供のためなのか
自分のためなのかを考えた。
自分のために言っていることのなんと多いこと。
それに気づいてから、
これは、彼の問題。
これは彼女の問題。
これは、私の問題。
そんなふうに切り替えることを意識して考えようと努力するようになった。
そうしたら、子供と自分
また、他者と自分をきりわけて考えられる。
勉強しなさい。という言葉の中には、
あほやとあんたが後から困るねんで。と言いつつ
あんたがちょっとでもええガッコ行かんな私が恥ずかしいやん
というのが含まれていないだろうか?
あほやと何で困るのか。
簡単に言うと、
あほ→ええガッコ行かれへん→ええとこ就職でけへん→
自分の子供が自慢できへん→おまけに給料安い→私の老後はみてもらえるんか?
(自分の老後は自分で考えようよ)
学校の勉強はできないけれど、
賢い子もいる。
学校の勉強はできるけれど、あほな子もいる。
優しい子や、人の心がわかる子は、
学校の勉強ができる、できないには左右されない。
学校の勉強だけを物差しにするのではなく。
学校に頼らないとすると、どうするのかはまた別の話。
自分の主観ではなく、客観的に子供を見ると、
今まで見ていた子供とは違う姿が見えてくるのではないか。
こうあってほしい、うちの子はこんな子と親が決めつける子供ではなく、
一人の人間として見ることができるように思う。
その上で、一人の人間に対するように真摯に話せば、
それは、自分(親)のために言っているのではなく、
その人(子供)のために言っていることになるのだろうと思う。
私の問題と、子供の問題を切り離して考える努力をしよう。
それは、なかなか難しくて、
今も修業中。
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